母の2年間の入院をざっくりと。
私の家は母子家庭で、私が2歳の頃に離婚しており、父親と会う習慣もなかったので、
顔はほとんど覚えていません。
そんな私にとって母は、母親でもあり父親でもある存在でした。
そんな母が体調を崩したのは2019年の初夏。
検査入院で膠原病の診断、幸い命に関わる病態ではなく、ステロイド治療を開始し、退院となりました。
退院したのも束の間、今度は食事が摂れない日々が続き、しまいには動けない状態となってしまいました。
東京で働いていた私ですが、緊急受診のため帰省しました。
そこからは怒涛の日々で、今こうしてゆったりと腰を据えてブログを書いている未来があるなんて想像もしていなかった。
すぐに訪れた再入院、点滴を開始して一時は元気になりました。
しかし、数日後には小腸の浮腫が悪化し、腹水・胸水がたまり、原因不明の状態悪化。
当時の内視鏡では小腸の絨毛(栄養素を吸収する襞)がほぼない状態で、広範に炎症を起こしていました。
夜の9時過ぎに主治医から連絡がきたときには、生きた心地がしませんでした。
看護師だからこそ分かる、夜に医師が電話するとき、いい報告なんてないのです。
大変な状態になっていることを実感しました。
次に面会にいったときには、反応もなくただただ横になっている母。
医師からは、大学病院への転院を勧められました。
数週間経過しても、原因不明で状態悪化している現状、地域の中核病院では手に負えない状況になっていました。
そこからは、大学病院の転院先を探す日々。
運よく都内の大学病院の転院が決まり、救急車で長い道のりを移動しました。
医療職であってもサイレンの鳴る救急車に同乗するのは初めての経験でした。
大学病院での治療、検査が始まりました。
感染症を起こして、敗血症(細菌が血流に乗って全身を脅かす病態)の状態となり、
ICU(集中治療室)で1か月ほど過ごしました。
それからの日々は、対症療法に頼る日々で、有効な治療法がみつからないままに(難病なんだから治療法ないのは前提ですが(笑))、約3か所の転院を経ました。
これまでにもTNF-α阻害薬や生物学的製剤と呼ばれる薬を疾患適応外で使用し治療にあたったものの改善はなし。
セカンドオピニオン、いやフォースオピニオンというのでしょうか。
たくさんの病院を訪ねて、良い治療法を探し続けました。
入院治療こそは断られましたが、治療法について意見を下さる病院があり、
その治療を試すことに。
治療は奏功、少しずつ少しずつ小腸の炎症は改善していきました。
炎症は改善したものの、高度の狭窄が複数あり、経口摂取はほとんどできておらず、
CVポートを造設し、在宅IVHをする運びとなりました。
経口摂取を目指していた母としては、CVポートの造設はショックは大きかったと思います。
将来的には手術が必要になる可能性が高いこともあり、炎症性腸疾患の手術経験の豊富な病院で意見を聞かせていただきました。
現状の全身状態では手術のリスクが高いこともあり、未経験の手術になるため命の保証はできませんとの返答。
ここまでで、母が入院して約2年経過していました。
「治るかもわからないのに、命かけれない。家に帰りたい」
2021年夏、ついに退院することとなり、在宅医療や訪問看護などの地域サービスの調整し、退院となりました。
ざっくり二年間の振り返りでした。
明日以降は、その時その時の出来事をもう少し深堀りしてお伝えしていきたいと思います。
では。