「治療できる見込みがないなら家に帰りたい」
医師からの病状説明後、心身ともに身動きができないくらい憔悴していたように思います。
自分の仕事も忙しい時期と重なり、実際この頃の記憶ってなかったりします。
メモは残っているものの、記憶としては抹消しているのかもしれないです。
それは意図的な防衛なのか、自然なのかはわかりませんが。
それから少し経ってから、”わからないことがわからない状態ではだめだ!”と自分を律し、
「原発性免疫不全症候群」についての自己調査を始めました。
改めてどんな病気なのか、日本にどれくらいいるのか、治療法はあるのか、
診療に強い病院はないのか、など。
医療雑誌に加えて、医療文献も検索して読み漁りました。
「一生治らない」と言われると、本当に治療法はないのかと考えてしまうもの。
悪魔の証明状態になりました。
当時は、本当は探せばあるのではないかと血眼になって探していました。
”原発性”というと難しいのですが、”先天性”とほぼ同義で使われているようです。
多くは小児期に発見される疾患で成人発症例は稀でした。
また、”症候群”とされているぐらいなので、多数の疾患群から成ります。
主な原因は遺伝子異常によるものとされ、数百種類の原因遺伝子の候補があるようです。
中には解明されている遺伝子もありますが、多大な量の遺伝子検査が必要になります。
母の場合は特定の遺伝子異常が見つかったわけではなかったのですが、
状況証拠的に確立が高く、”ほぼ黒”という状態でした。
自分で調べた情報をもとに母の意向を確認し、
今後をどうしていきたいかを話し合っていきました。
母の希望は難しい状態であるものの、診断をつけてくれたこの病院が診療に慣れているだろうからと、この病院での入院継続を希望しました。
そして「治療できる見込みがないのなら家に帰りたい」と語りました。
主治医へ質問したいことができたと伝え、面談の機会を作っていただきました。
これらの集めに集めた情報と質問を持って、2回目の医師との面談に臨むことに。
母は自分は聞きたくないとのことで、私一人でいざ闘いへ。
文献では、遺伝子が特定されれば治療法があるものもありました。
遺伝子の特定はできないか確認しました。
こちらの病院は前々回の記事にも書かせていただいたのですが、
小児の遺伝子検査の実績がある病院です。
特にこの疾患の場合、小児期ではわかりやすい所見があり、
小児では遺伝子の目星をつけて検査をしているとのことでした。
もう50過ぎの母では原因の遺伝子を特定することは極めて難しいこと、
大枠として症候群であることまではわかるが、
それ以上の詳しい遺伝子の診断はできないという返答がありました。
そして、文献検索での治療法として出てきた「骨髄移植」。
適応となるか確認したところ、
遺伝子の特定ができない以上は適応にならないということ。
最後、小児期からのこの疾患の診療に慣れているこの病院で診てもらいたい旨を伝えました。
結果、返答は”不可”でした。
元から検査入院のはずだからその後の治療方針については、
元いた大学病院で検討してもらいたいと。
なるほど。きっぱり割り切られました。
自分たちは主では診ませんという宣言。
あくまでも診療の補助的立場は崩さない姿勢でした。
ここまではやるけど、ここからは範囲外というのがはっきりしていました。
あっちに行ってこっちに行って。結局押し付け合いのような感じに。
なぜ大病院がそういう対応になるのか。
それは保険診療上、急性期病院には長期入院できない仕組みになっているからです。
急性期病院である大学病院は長期入院の患者がいると少々都合が悪い事情があります。
難病となると長期入院になることは目に見えていました。
加えて、母の場合はアルブミンの投与量が大変多く、
規定の量を超えて使用しなくてはならない状態でした。
規定以上は病院側が負担することになってしまうのです。
病院としては負債を抱える原因の患者、
できれば入院は受け入れたくないのが本心です。
この問題、実は今後ずっとつきまとう問題となっていきました。
ひとまず、ここの大学病院での療養継続は断られしまい、
元々の大学病院へ戻り、治療戦略を再度練ることになりました。
転院までの日々はあっという間で、
ここでは診られません宣言から10日で再転院となりました。
前回に引き続き、今回もは重い内容となってしまいました。
お読みいただいた方、本当にありがとうございました。
次回は元の大学病院へ戻り、治療方針を再検討していく過程をお伝えしたいと思います。
アクセスいただいている方、読んでくださっている方、スターを下さった方、本当に励みになります。感謝致します。
では。