病院で歳を重ねる。
転院して3か月が経過し、これまでに色々な検査を行ってきましたが、
母の病名はわからないままで、ただただ同じ治療を行う日々を送っていました。
まさかこんなことになるなんて。
母も私も家族の誰もが想像していなかったと思うのですが、
母は病院で誕生日を迎えることになりました。
一年に一度しか訪れないその日を病院で過ごすなんて、
貴重といえば貴重な体験ですよね。
多くの人はこの世に誕生するときくらいなんですかね(笑)
逆に何でもない日常の中にいたときより、とても大切にその日を過ごすことができたように思います。
私たちにとっては「病院で誕生日」は決してネガティブなことではありませんでした。
中には病院で過ごすなんて嫌だとか悲しいと感じる方もいらっしゃるかと思いますが、
それ以上に生命の危機を乗り越えた後、歳を重ねられることへの感謝の方が大きかったのだと思います。
誕生日っていいですよね。
病気になってから中々話せなかったセンシティブな内容についても、
生きていることに感謝するという話題から、これまでの最初の入院からすぐに再入院になって大学病院へ転院してきた、今に至るまでのお互いの想いを話すことができました。
命を脅かすような体験、自分が死ぬかもしれないという思いや家族が死んでしまうかもしれないという恐怖。
お互いの立場は違くとも、抱えている想いは近かったと思いますが、それを口に出して話すことはまた別問題で、ハードルが高かったです。
でも”誕生日”というきっかけがあって、話すことができた。
どうなっちゃうんだろうとか、このまま治療法がみつからないのかなとか、家に帰れないのかなとか、普段話せていなかった心の内側をさらけ出しました。
答えが出る問いではないし、それはお互いにわかっていました。
でも、「わからないのって怖いよね」っていう気持ちだけ共有できれば
ただそれでよかったんだと思います。
最近、「恐怖は無知だから」という言葉を知って、なるほど、確かになと思いました。
何気ない日常でしたが、こうして話ができることに感謝しました。
このブログの元となっている日々の走り書きメモも、最初は生きることで精一杯な母の言葉や表情、行動すべてを記録するために始めたものですが、こうしてまた向かい合って話ができていることって、あたりまえではないなと改めて感じたのでした。
辺りの木々が紅葉し始め、空気には金木犀の気配を感じるようになりました。
病院の部屋に閉じこもりっぱなしの母に外界のうつろいを届けたくて、紅葉したイチョウの葉を持って行ったりしました。
(病院は生花とか禁止だから、生の葉は本当はだめ。(笑)そして母には触れさせてません!)
さすがに金木犀の香りを届けることはできなくて、残念でなりませんでした。
外の空気感、季節の香りや温度をそのまま届けられたらいいのにな。
こうして冬を迎えていきました。
今回は前回と打って変わって少しのほっこり話でした。
最後まで読んでくださった方がいたら、ありがとうございました。
余談ですが、私が誕生日を好きな理由はもう一つあって。
大人びてみられる分、年齢が先を行っている20代でした。
それが、ここ最近は年齢が自分に追いついてきたというか、その歳らしい自分に自信を持てるようになってきたから。
JK,JDの中では歳をとるのは悪だみたいな風潮があるように感じますが、若さだけがすべてではないですからね。
という独り言。というかいつもひとりごと。
では。