あの日の誰かのためのブログ

自分のできることから少しずつ。

人と話すということ。入院で絶たれる様々なもの。

前回に引き続き、コロナ禍の母の入院生活のお供についてや

そんな日常で感じたことについて書いていきたいと思います。

 

コロナ前の直接面会していた時は、面会では会話をしていることがほとんどでした。

長いときは3~4時間滞在して主にお互いの最近の出来事を話したり、

時々この先の不安なんかを話したりして過ごしていました。

 

面会って、本人が動ければ院内を一緒に歩いたり、

中庭とか展望階とかでお話したりすることが多いのかなと思います。

コロナ前であれば、食堂や自室内で一緒に食事をしたり。

でも、体を動かせず部屋から出られないで生活している方もいる。母のように。

そういう場合は、もう話をするだけしかできなかったりするんですよね。

 

母にとっても人との会話が気分転換や暇つぶしになっていたのだと思います。

それが面会制限によってできなくってしまったのです。

前からお話してきたように、読書やテレビといった対人ではないものでの暇つぶしをするほかなくなってしまいました。

面会制限に伴いより社会との壁が厚くなり、

入院生活の退屈さが増すことになりました。

 

そんな母の様子を見る中で、コロナによる面会制限や入院に伴う社会生活の制限について考えたことがあります。

 

入院による外界との断絶は、物理的なものだけではななくて、

社会生活の中で必然的に営まれている何気ない物事ととも隔てられてしまうというのも大きいのかなと思っていて。

入院してから母はよく、「人と話すのが怖くなった」と言うようになりました。

長い間病院の中で生活し、会話の相手が医療者に限られてしまうと、

”普通の”会話、世間話的な会話の仕方を忘れてしまうとのことでした。

入院前まで自然とやってきた会社の人や買い物に出た先のお店の人とのやりとり、

近所付き合い、家族とのやりとりも入院により、一切できなくってしまう。

医療者との会話といっても、病状についての話や療養上必要な情報収集的な意味合いが大きく、公平な立場での会話とは感じられないようでした。

 

医療者との会話って、どこか仕事的というか。

改めて考えると、聞かれたこと、医療者が求めることに関する会話中心になってしまいがちだと感じました。

病気のことに関わらず、患者が話したいことを話す機会ってどれくらいあるのだろう。

もちろん状態によっては不必要な会話以外は話したくないと思うときもあるだろうなとも思います。

でも、人と話すって基本的な人間の社会的な営みとして大事だと思うのです。

 

このような母の話を聞いて、自身の仕事においても

何気ない日常会話こそ大切だと改めて思うようになりました。

入院している患者にとっての社会は”病院”が多くを占めます。

コロナ禍においては特に。

そしてコミュニケーション相手はやはり看護師が多いと思います。

 

母から「当たりの看護師、はずれの看護師がいる。」という話をされたときは

冷や汗ものでした。

患者側の率直な意見だろうと思います。

母的には業務的なことしか話さない人とそうでない人はすぐわかると話していました。

こういった同業に関する話は耳が痛いですが、

普段の自分からではその視点は生まれなかったと思いますし、

普段の自分の看護も一方的なコミュニケーションになっていないか省みるようになりました。

 

医療者と患者の間に”医療”が介在することで、患者は「仕方ない」とあきらめて生活していることが多いのではないかと思います。

その仕方なさにこそ、葛藤とかストレスとか名前の付けようのない気持ちがあるのに、

その狭間にある気持ちを見落としてはならないなと思います。

母からの率直な意見は本当に学びが多かったです。

 

 

今回はきりが良いのでこのあたりで終わりにしようと思います。

今回ご紹介する本は、母が入院していた病棟の仲の良かった看護師が薦めてくれた小説です。

色々な人のおすすめを聞けるという点では楽しさもあったのかなと思います。

こちらは上橋菜穂子さんの守り人シリーズというものです。

シリーズものの本は暇つぶしに持って来いですね。

 

 

 

 

入院中に読んでいた本はまだまだたくさんあったのですが、

きりがないので今回で終わりにします。

 

次回からはまた、治療経過についてお話していきたいと思っています。

免疫抑制剤と生物学的製剤を開始した後の経過は難渋しており、

新たな治療が開始したことについて話していきたいと思います。

 

お読みいただいた方、ありがとうございました。では。