あの日の誰かのためのブログ

自分のできることから少しずつ。

倫理委員会の承認と新たな治療。

今回は少し難しい話なのですが、母の新たな治療が始まるにあたり、

適応外の治療がどのように承認されて、実際に治療が開始されるに至ったか

についてお話していきたいと思います。

 

前回お伝えした免疫抑制剤や生物学的製剤には適応の疾患や病態があります。

これらの薬剤が適応となるのは主に、自己免疫性疾患や悪性腫瘍、移植後などです。

 

母は明確な診断がなされていない上に、

診断されている難病も適応疾患ではなかったため、

これらの薬剤を使用するために、院内の”倫理委員会”にかけられることになりました。

 

適応外の疾患に薬剤を使用するということは、副作用がどのように出るか把握できていなかったり、治療の有効性が確立されていないといったデメリットがあります。

 

反対に、症例数は少なくても論文の発表などから、

有効性が認められている場合もあり、それが奏功すればメリットとなりえます。

 

倫理委員会では治療の適応や妥当性に加え、

治療に伴うメリットやデメリットが検討されました。

 

メリットとデメリットのある話ですから、

リスクについて患者・家族に対してきちんと説明されました。

 

倫理委員会なんて通さなくていいから、医師が必要と思った治療をやってくれればいいと思う方もいらっしゃるかもしれないのですが、

適応外でも治療を受けられる可能性-いい面-に目を向けるだけでなく、

リスクについてもきちんと話し合って、病院側、患者側が双方に納得して安全な治療を決めていくことが大切だと感じました。

これまでの長い間治療法がなくて絶望にいたとしても、その決断はこれまで繋いできた命や生活を左右するものだと思っています。

視野が狭い中でも、与えられた選択肢についてよく考え、今と未来を決断していく。

 

母は「やれることがあるならやる。今より良くなる方法があるならやりたい」と、

治療を希望し、倫理委員会の同意書にサインしました。

 

主治医の先生方は、他の疾患ではよく使われるこれらの薬の使用に慣れていたこともあり、安心してサインすることができたように思います。

 

1週間くらいで倫理委員会の承認が得られ、治療が開始されることになりました。

 

母の病態に対しては初の試みであり、状態を考慮して投与量のスケジュールを決めて慎重に治療を進めていくことになりました。

 

この頃は病状も大きく変わらないことに加えて、コロナ禍で面会できないこともあり、

主治医とも全然話す機会がなく、治療の経過は母からのライン連絡で把握するようになっていきました。

 

この後、面会のこととか色々と書き続けたら3,000字を超えてしまったので、

今回はここまでで切り上げようと思います。

 

倫理委員会という少し硬い内容になってしまいましたが、難病患者さんや治療法の限られた状態にいる方にとっては、ご経験されている方もいらっしゃるのかもしれませんね。

私自身、看護師でありながらそのような場面に居合わせることがはなかったので、

初めての経験がまた1つ増えることとなりました。

次回はコロナ禍の面会事情について詳しくお話していきたいと思います。

 

今回もお読みいただいた方、本当にありがとうございます。

拙い文章で、備忘録的な記載ですが、お読みいただけて嬉しく思っています。

では。

免疫抑制剤と生物学的製剤とやら。

世間では新型コロナウイルスが本格化していました。

今となっては1日に1万人近く感染者が出ても驚かなくなってしまいましたが、

上陸当初は数人出ただけでも大騒ぎになっていたなあとこの頃を思い出します。

 

4月に入って間もなくして、緊急事態宣言が発出され、

病院の面会も禁止になりました。

最初の緊急事態宣言のときは街から人がいなくなったのを覚えています。

多くの人が自粛を守ることが当り前の世界。

電車に乗って必要な物品補充のため病院に向かうとき、

そんな人気のない街に出ることに少し後ろめたさを感じている自分もいました。

必要性があって外に出ているけれど、傍からみたらその区別なんてできないですから、

”宣言下で出歩いている人”って見られていただろうなと思います。

転院の日なんか、さっそうと朝から私服でキャリーケース引いてましたしね(笑)

旅行に行くわけじゃないですよー!!って心の中で叫んでいました。

 

面会禁止時は、病院に着いたら病棟のナースステーションで荷物を渡し、

洗濯物を受け取ってそのまま帰宅といった流れでした。

約1時間かけて病院へ行き、5分で用事が済んでしまう、そんな日常でした。

 

また、母はこの頃とある感染症になってしまい、奥の個室管理になっていました。

もちろんコロナではありません。

日和見感染からの多剤耐性菌感染といったところです。

日和見感染」とは、健康な方では問題とならないような病原体に感染することで発症する感染症のことをいいます。

人間には常在菌といって、誰しも皮膚などに存在している菌があるのですが、

健康な人であればなんともない病原菌です。

しかし、免疫力が低下している人や感染源となりうる挿入物が体内になる方にとっては、感染しうる菌となるのです。

 

そして多剤耐性菌とは多くの抗菌薬(抗生物質)を耐性を持つ菌のことです。

日和見感染の治療で使用した抗生剤に耐性を持つ菌が現れるということです。

抗菌薬の耐性を持つ菌に感染してしまうと、

その菌に対抗できる抗菌薬が限られてしまうので、治療が難航してしまいます。

 

母の場合、免疫不全の状態であることに加え、

長期のステロイド投与や中心静脈カテーテルなどの体外付属物もあったため、

健康な人の数倍も感染症にかかりやすい状態でした。

また、感染症にかかる頻度も多かったため抗生剤を長期に渡り使用しているという背景もありました。

多剤耐性菌は院内感染となると大変なので、多くは隔離管理となります。

 

隔離され、一番奥の部屋。

廊下でみかけたり、部屋を覗いて顔をみることもできませんでした。

 

 

そんな母ですが、転院を経て得られた新情報を踏まえて、

ある”治療”に踏み出すことになりました。

 

それが、「免疫抑制剤」と「生物学的製剤」とよばれるものです。

 

1つ目の免疫抑制剤とは免疫反応で中心的な役割を担う細胞の働きや増殖を抑えるものです。

母のような自己免疫性疾患では免疫系が過剰に働いており、

自分の体さえも攻撃してしまっている状態なのです。

簡単に言うと、その状態に対し過剰になった免疫を抑える薬を投与して、

免疫をニュートラルな状態にしていく治療となります。

免疫を抑えるということはもちろんデメリットもあるのですが、、、

(今回は割愛させていただきます。のちにどこかでご説明できたらと思います)

次に、生物学的製剤とはバイオテクノロジー(遺伝子組換え技術や細胞培養技術)を用いて造された薬剤で、特定の分子を標的とした治療に使われます。

この製剤は高分子の蛋白質でできており、内服薬では消化されてしまうため、

点滴あるいは皮下注射で投与します。(日本リウマチ学会参照)

体内で悪さしている分子に働きかけ、その機能を抑制する効果があります。

 

母の状態のおいては免疫不全状態であるものの、

ある部分では免疫系が亢進し、自己の免疫系を攻撃してしまっていたので、

それに対する免疫抑制剤として「プログラフ(タクロリムス)」、

生物学的製剤として「ヒュミラ」と呼ばれるものの投与が始まることになったのです。

 

 

これまで根本的な治療をできなかった母にとって大きな第一歩となりました。

 

今回はここまでといたします。

ここまで読んでいただいた方にとっても、やっと進展があったなと感じられる回だったのではないかと思います。

ここまで来るの長かったですよね。

でも、難病において捉え方によっては”早い”ともいうのかもしれませんね。

 

次回は新しい薬物治療についてやコロナ禍の面会事情などについて書いていこうと思っています。

お読みいただいた方、ありがとうございました。

では。

これまでのおさらい。お花見で久しぶりの外出、色のある世界に感動。

元々入院していた病院に戻るとはいえ、今回の転院で3回目。

約ひと月での再度転院となり、出戻りになった母。

前に診ていただいていた病棟へ戻ることになり、

人や環境に変わりのない病棟に安心しました。

 

当日は顔なじみの看護師や他スタッフが出迎えてくださいました。

転院前から大きな状態の変化はありませんでしたが、

ただここに居ていいという雰囲気を出してくれた温かい病棟に感謝しかありません。

 

もう戻らない意気で出ていったはずの病院。

すぐに戻ることになり、申し訳なさというか気落ちした部分も救われる気がしました。

主医師も「また立て直しましょう」と言ってくださり、前を向けたように思います。

 

検査転院は1歩進んで2歩下がった状態ではありましたが、

治療方針としては進展がありました。

転院先の大学病院での検査結果をから治療方針を再検討していくことになりました。

 

 

ここで一旦、この当時の母の状況をおさらいしてみます。

 

成人スティル病と診断後、消化器症状が出現して8か月経過。

原因不明の全身浮腫によりICUで1か月過ごしました。

あらゆる検査を行っても病名は不明で、3箇所の病院を経ます。

内視鏡検査やCT検査でわかっていることは小腸に広範の炎症や狭窄があること。

炎症が持続しており、”蛋白漏出性胃腸症”と呼ばれる病態を生じていました。

原因不明であり症状に対する治療がメインで、ステロイドグロブリンアルブミン製剤や輸血の投与、感染に対して抗生剤の投与が行われていました。

そして、腸炎に伴い下痢や嘔吐が続いており、制吐剤ではコントロールできない状態。

リハビリも進めることができず、ベッド上での生活が中心でした。

ほぼ寝たきりでおむつを装着して生活していました。

飲水や内服はできても、許された食事は具なしのスープ類やゼリーのみ。

首から挿入されたCVカテーテル(中心静脈カテーテル)から高カロリー輸液を投与して、栄養補給を行っている状態でした。

検査転院にて遺伝子検査で原発性免疫不全症候群の可能性が出てきました。

 

こうして書いてみるとわかるのですが、

この段階で核心に迫った治療は未だ行えていない状況でした。

これは、難病であるがゆえのことなのかなと思います。

原因不明である以上、下手に薬剤の投与を行えば副作用等のリスクが大きい場合もある。

症例数が少ないことにより、その副作用の出方さえも予測ができない。

つまり治療によってどうなるかという予想が難しいのです。

出ている症状に対して、それを軽減させる治療で精一杯というところ。

先生方も様々な文献を検索して、カンファレンスで検討して治療方針を決めるなど慎重に診療してくださっていました。

 

でも結果としては8か月間、何も進展はない状態が続いていました。

 

そうこうしている間に、病院前の桜並木にも桜が咲き始め、春がきました。

 

その頃、世間は新型コロナウイルスの感染が拡大し、緊急事態宣言が出される少し前。

徐々に面会の制限が出始めていたものの、長期入院であることを考慮してくださり、

院内のお花見に行くことが許可されました。

 

担当看護師と主治医とともに車椅子で外へ。

私は外での合流となりました。

その日は風が強くて肌寒かったけど、晴れていてきれいな桜をみることができました。

 

「久しぶりに色のある世界をみた」って。

すごく名言的だけど、約1年も入院していて、しかも自由に外に出られる病状ではない母にとってはごく普通の感想だったのだろうなと思います。

私も久しぶりに何かきれいな景色を一緒にみて、

感想を共有できて嬉しかった憶えがあります。

一緒に道端を歩いたら経験できるような何気ない日常も、この1年で非日常となっていたので、それだけでも十分だと思えました。

 

治療としてはその後、少し前に進むことになり、

新たな治療が開始されることになりました。

次回はその治療についてお話していきたいと思います。

 

お読みいただいた方、ありがとうございました。

では。

「治療できる見込みがないなら家に帰りたい」

医師からの病状説明後、心身ともに身動きができないくらい憔悴していたように思います。

自分の仕事も忙しい時期と重なり、実際この頃の記憶ってなかったりします。

メモは残っているものの、記憶としては抹消しているのかもしれないです。

それは意図的な防衛なのか、自然なのかはわかりませんが。

 

それから少し経ってから、”わからないことがわからない状態ではだめだ!”と自分を律し、

原発性免疫不全症候群」についての自己調査を始めました。

改めてどんな病気なのか、日本にどれくらいいるのか、治療法はあるのか、

診療に強い病院はないのか、など。

医療雑誌に加えて、医療文献も検索して読み漁りました。

 

 

「一生治らない」と言われると、本当に治療法はないのかと考えてしまうもの。

悪魔の証明状態になりました。

当時は、本当は探せばあるのではないかと血眼になって探していました。

 

 

原発性”というと難しいのですが、”先天性”とほぼ同義で使われているようです。

多くは小児期に発見される疾患で成人発症例は稀でした。

また、”症候群”とされているぐらいなので、多数の疾患群から成ります。

主な原因は遺伝子異常によるものとされ、数百種類の原因遺伝子の候補があるようです。

中には解明されている遺伝子もありますが、多大な量の遺伝子検査が必要になります。

 

母の場合は特定の遺伝子異常が見つかったわけではなかったのですが、

状況証拠的に確立が高く、”ほぼ黒”という状態でした。

 

自分で調べた情報をもとに母の意向を確認し、

今後をどうしていきたいかを話し合っていきました。

母の希望は難しい状態であるものの、診断をつけてくれたこの病院が診療に慣れているだろうからと、この病院での入院継続を希望しました。

 

そして「治療できる見込みがないのなら家に帰りたい」と語りました。

 

主治医へ質問したいことができたと伝え、面談の機会を作っていただきました。

これらの集めに集めた情報と質問を持って、2回目の医師との面談に臨むことに。

母は自分は聞きたくないとのことで、私一人でいざ闘いへ。

 

文献では、遺伝子が特定されれば治療法があるものもありました。

遺伝子の特定はできないか確認しました。

こちらの病院は前々回の記事にも書かせていただいたのですが、

小児の遺伝子検査の実績がある病院です。

特にこの疾患の場合、小児期ではわかりやすい所見があり、

小児では遺伝子の目星をつけて検査をしているとのことでした。

 

もう50過ぎの母では原因の遺伝子を特定することは極めて難しいこと、

大枠として症候群であることまではわかるが、

それ以上の詳しい遺伝子の診断はできないという返答がありました。

 

そして、文献検索での治療法として出てきた「骨髄移植」。

適応となるか確認したところ、

遺伝子の特定ができない以上は適応にならないということ。

 

 

最後、小児期からのこの疾患の診療に慣れているこの病院で診てもらいたい旨を伝えました。

 

結果、返答は”不可”でした。

 

元から検査入院のはずだからその後の治療方針については、

元いた大学病院で検討してもらいたいと。

 

なるほど。きっぱり割り切られました。

自分たちは主では診ませんという宣言。

あくまでも診療の補助的立場は崩さない姿勢でした。

ここまではやるけど、ここからは範囲外というのがはっきりしていました。

 

あっちに行ってこっちに行って。結局押し付け合いのような感じに。

 

なぜ大病院がそういう対応になるのか。

それは保険診療上、急性期病院には長期入院できない仕組みになっているからです。

急性期病院である大学病院は長期入院の患者がいると少々都合が悪い事情があります。

難病となると長期入院になることは目に見えていました。

加えて、母の場合はアルブミンの投与量が大変多く、

規定の量を超えて使用しなくてはならない状態でした。

規定以上は病院側が負担することになってしまうのです。

病院としては負債を抱える原因の患者、

できれば入院は受け入れたくないのが本心です。

 

この問題、実は今後ずっとつきまとう問題となっていきました。

 

ひとまず、ここの大学病院での療養継続は断られしまい、

元々の大学病院へ戻り、治療戦略を再度練ることになりました。

 

転院までの日々はあっという間で、

ここでは診られません宣言から10日で再転院となりました。

 

 

前回に引き続き、今回もは重い内容となってしまいました。

お読みいただいた方、本当にありがとうございました。

次回は元の大学病院へ戻り、治療方針を再検討していく過程をお伝えしたいと思います。

 

アクセスいただいている方、読んでくださっている方、スターを下さった方、本当に励みになります。感謝致します。

 

では。

この先一生入院と言われて。

転院して間もなく、遺伝性疾患が疑われ遺伝子検査を行っていたのですが、

3週間ほど経った頃に、主治医より検査の結果を伝えたいと連絡がありました。

 

病状説明の日、夕方に病院へ行き、母と話しながら待っていました。

予定時間を少し過ぎたあたりに先生が来て、母に言いました。

 

「一緒に聞きますか?先に別室でご家族にお話しようかと思っているのですが」と。

 

そんなこと言われたら、身構えてしまいますよね。

しかも良い内容ではないなって。

 

そういうことは先に私に言ってほしかったよ、先生。

母がいるところではなくて、どうするか聞いてほしいなと思いましたね。

 

 

「どうしよっか」って言って、動揺してこわばる顔。

なんとなく事態を察した私は、先に聞いてみてくるって言って部屋を後にしました。

 

 

病状説明の部屋に移動。

部屋には主治医と研修医と私。

 

そこで言われたのは「原発性免疫不全症候群」という診断。

 

遺伝子検査の結果、免疫系の検査数値に異常が出ており、

この疾患に酷似しているとのこと。

またまた初めて聞く病名。

そう、またもや難病でした。

 

その後詳しい説明を受けました。

どうやら後天的に免疫系が働かない状態となり、

その免疫異常が小腸に現れたと考えられるとのこと。

 

あの時、確か本当に言われたことを理解するのに必死でした。

予想の上を行く展開で、自分の何もかもが追いついていなかったです。

先生は診断が見つかった!!とばかりに、こちらの心境お構いなしに、

どんどん説明していくし、大混乱でした。

ぽつりぽつりと浮かぶ質問を投げかけて、

そうそう、私がちゃんとしなきゃってなって。

 

一番気になること、”今後はどのような流れになるんですか?”

その問いかけに、

「遺伝性の疾患ですから、根本の治療はできません。対症療法を行いつつより良い状態に近づけて、地元の病院でも診療できるレベルにしていきます」

「原因が解消されない以上は今後、口から物を食べることはできないと思います。

 点滴での生活が一生続き、今行っている治療を継続するためには最期まで入院生活となると思います」と。

 

つまり、一生入院しながら何も口から食べられず点滴生活を行っていく。

という未来を告げられたのです。

 

自分の頭では処理できないことばかり、思考がフリーズしました。

でも、この後には母への説明が待っていました。

本人を前にすることを考えると、スッと冷静になっていく自分もいました。

 

30分くらい話し、医師らとともに母の病室に戻りました。

 

病名やどのような疾患かについては同様の内容を平易な言葉で説明されました。

医師から質問はないか確認される母。

 

 

余談ですが、「質問ありますか?」って簡単に言うけど、

今初めて聞いて衝撃の中にいるときに、質問できる人っているのでしょうか。

医療者の私でさえ、一旦飲み込むまでに時間を要しました。

 

こちらに助けを求めてくる母。

何でもいいから今一番気になることは何かと問いました。

また出てきたらその都度聞けばいいから、と。

 

そして、母が質問したことはただ一つ。

 

「先生、私は食べられるようにはなるんですか」

 

 

医師は先と同様に、食べられるようになることは難しいと伝えました。

 

 

 

その日は、これで終了しました。

医師が去ったあと、お互いに「どうゆうこと?」と頭がはてなだらけに。

沈黙ばかりで意味のある会話はなかったように思います。

空気の重さを感じずにはいられませんでした。

 

 

 

さらなる転院で治療法が見つかるかもしれないという

思い描いていたハッピーエンドはそこにはなく。

あったのは、バッドエンドだけでした。

 

 

帰り道、こんなに涙が出るのかというくらい泣きました。

 

母も泣いたのかな。

お互いには涙をみせられなくて。

入院中、母が私の前で泣いたのはICUにいる時だけだったな。

 

 

今回は少し暗い内容となってしまいましたが、

この時の出来事はこの先も一生忘れないと思います。

絶望するってこういうことなんだって思いました。

 

次回は原発性免疫不全症候群について少し触れていきたいと考えています。

今回はこの辺で。

お読みいただいた方、ありがとうございました。

では。

エレンタールとの出会い。

まずは、前回の続きでエレンタールの小噺を。

エレンタール”とは高カロリーの栄養剤の1つで、

消化をほとんど必要としない成分でできています。

栄養剤としての役割や炎症性腸疾患の治療としての役割もあります。

粉末状の栄養剤でお湯や水に溶かして飲みます。

 

主な目的は消化管疾患があったり、腸を安静にする必要があったりする場合に、

食事の摂取が困難である方が栄養素を摂り入れるために使用します。

あとは手術の前後の栄養管理としても使用されることがあります。

 

治療としては炎症性腸疾患の1つであるクローン病で一定の効果が示されており、

飲まれている方は多いかと思います。

 

このような成分栄養剤と呼ばれるものは、正直味がひどいことが多いです(泣)

カロリーを付けるために甘味の強いものであったり、

栄養剤独特の香りをまとっているだけでなく、

形状もドロドロとしたものが多く、飲むのも一苦労のようです。

 

母も初めてエレンタールを飲んだ時は、より一層の吐き気に苦しみました。

そんな患者さんの声に応えてか、エレンタールにはフレーバーという救世主がいます。

フレーバーは現在10種類あり、好みのフレーバーを一緒に溶かすことで、

味変し少し飲みやすくなるようです。

 

フルーツトマト、オレンジ、グレープフルーツ、青りんご、パイナップル、コンソメ、コーヒー、ヨーグルト、さっぱり梅、マンゴーの10種類があるみたいです。

幅広く展開されているなあと関心致します。

 

母の場合は、”さっぱり梅”と”青りんご”がベストなフレーバーのようでした。

コンソメとトマトは飲めるものではなかったとのことです(笑)

炎症性腸疾患だと吐き気や下痢などの消化器症状が頻繁に起こっているので、

さっぱりしているものが印象が良いようです。

 

みなさんの好みのフレーバーはあるでしょうか。

エレンタールを飲んでいる方って結構たくさんいらっしゃるなという印象があります。

もしよい飲み方があれば教えてください(笑)

小噺の予定が長くなってしまった。。。

 

 

3つめの病院に転院してからの母は、、医師はもちろん日々関わる看護師とも新たに関係を築いていかなくてはならないことに苦痛を感じていました。

治療にあたってくださる医師が変わるということや、日常の援助する看護師やリハビリスタッフ、全てが変わってしまうということ。

身体状態が良くない状況や、難病という状況に置かれた精神的苦痛がある中で、

人間関係を構築することは何十苦にもなっていました。

 

経過をわかっていれば、こういう症状が出るときはナースコールが多いとか、

こういう時はこうするといいなみたいなことが経験的に予測できてくるので、

お互いにコミュニケーションエラーのようなものは起きにくいです。

しかし、前の病院から引き継ぎがされているとはいえ、

新しい環境ではそういった配慮は難しいところがあると思います。

母としては長い療養の線上にある日々が分断され、

理解されない環境での療養の継続はしんどかったと思います。

 

1週間くらいは愚痴も多くなり、毎日LINEの嵐でした。

面会に行っても表情は暗かったのですが、持ち前の人付き合いパワーで

あっという間に仲良しの看護師ができていました。

 

この頃からじわりじわりと新型コロナウイルスが話題になり始め、

面会も時間制限が設けられるようになっていきました。

頻回の面会や長時間の面会ができなくなっていたので、相談できる看護師さんができて安心したのを覚えています。

 

そして入院して3週間程度経った頃、遺伝子検査の結果が告げられました。

次回は新たな診断との出会いについて書いていきたいと思っています。

 

お読みいただいた方、ありがとうございました。

では。

具なし味噌汁を味わう母。

新しい病院に転院してからは、

前の大学病院に移った時のように、検査検査検査の毎日。

今回は消化器内科病棟への入院(前の病院ではアレルギー内科)となり、

病棟や先生方の雰囲気も科によって違うなーという印象でした。

 

そして、主科(メインで診療にあたる科)が消化器内科ということで、

積極的に小腸の検査を進めていくことになりました。

 

それと並行して行ったのが、自己炎症性疾患の遺伝子検査。

どうやら、こちらの病院は遺伝子検査(とくに小児科)に力を入れているとのこと。

これまでに様々な検査を行っても原因不明であり、遺伝性疾患の可能性がありました。

その選択肢を減らすためにも、遺伝子検査をすることになったのです。

 

前回行った遺伝子検査は対象疾患を絞った検査であり、

その疾患であるか否かしかわからないものでした。

 

今回の遺伝子検査は自己炎症性疾患を幅広く検査することができました。

この病院では患者向けの確定診断や検査を行っていたり、

血縁者向けに発症前診断や保因者診断等を行っているようです。

 

遺伝子検査の中でも保険適応であるものとそうでないものがあり、

母の場合は保険適応内で行うことができました。

 

検査自体は簡単で、採血のみで行えるものでした。

 

また、遺伝子検査とも並行して「家族性地中海熱」という遺伝子性疾患の可能性が高い

ということで、診断的治療が開始されました。

診断的治療とは原因が明らかでない場合に、

特定の疾患を想定して治療を行うことです。

効果が認められれば、その疾患と診断し、

効果がなければ、別の治療を試し診断していきます。

 

この病気は自己炎症性疾患の1つで、指定難病になっているものです。

難病情報センターのHPのリンクを貼っておきます。

家族性地中海熱(指定難病266) – 難病情報センター (nanbyou.or.jp)

 

難病とはそもそも原因不明ではありますが、

中には有効とされる治療が見つかっている場合も含みます。

 

なので、診断に先行して治療を開始し、あたればラッキーといったところです。

家族性地中海熱の治療はコルヒチンという薬剤を内服したり点滴で投与したりします。

母も転院後すぐにコルヒチンの皮下の持続投与が開始されました。

内服でなかった理由は小腸の疾患のため、経口摂取ができないからです。

 

これまでにもたくさんの疾患の疑いがありましたが、

今回もみるみるうちにたくさんの可能性が出てきて、

並行して様々な検査が行われました。

 

また新たな疾患の疑いに戸惑いもありつつ、

確定診断がつくかもしれないという淡い期待。

でも、ここまで様々な疾患の疑いがあり、

正直「またか」という落胆の気持ちもあり。

 

消化器内科では、積極的に腸管も使用していく方針となり、

転院後、かなり早期に経口摂取が開始されました。

 

絶飲食によって長期間、腸を使わないことによる弊害もあるため、

リスクも承知の上で、最初は飲水や内服から開始することになりました。

 

その後はstep by stepで、具なしの味噌汁やゼリーもお試しで始まりました。

栄養士さんも面談に来てくれて、医師の許可の中で母が食べられそうなものを提案してくださいました。

久しぶりのお味噌汁やゼリーにとても喜んでいた覚えがあります。

具がなくても味噌の味わいが感じられるとか、ゼリーに味も色々あるから楽しいとか。

スープを打診してみたら、許可が出たとか。

食事に関する報告の毎日だったように思います。

 

そして、ついに炎症性腸疾患ではおなじみのエレンタールと出会うことになるのです。

 

今回はここまでで。

次回、エレンタールの小噺を含めつつ、3つ目の病院での診療の日常をお伝えしていきたいと思います。

 

では。