あの日の誰かのためのブログ

自分のできることから少しずつ。

レミケードも効かない。残された道は・・・。

母の主な病態は原発性免疫不全症候群と炎症性腸疾患。

 

約一年間検査を行いつつ、ステロイドグロブリンアルブミン製剤の投与を行ってきましたが、明らかな効果はなく経過していました。

そしてステロイド抵抗性であり、免疫抑制剤や生物学的製剤の投与も開始されました。

タクロリムス、ヒュミラによるものか、アルブミンの喪失は軽減しましたが、

嘔吐の回数は依然として多く、明らかな改善はありませんでした。

 

そこでヒュミラからレミケードへ薬剤が変更になりました。

レミケードは血中濃度が上がりやすいという観点から、控えられていたのですが、

いよいよ出番が来てしまったようでした。

炎症性腸疾患の投与スケジュールに沿って投与を開始しました。

 

レミケードを開始して1か月後、

前回と同じように造影CT検査で効果を判定することに。

 

結果は同じく変わりなし。

悪化していないことは嬉しいのですが、

始めた治療がことごとく効かない現状に先の光を失っていきました。

 

この頃はアルブミン投与量は落とせていたものの、

数日おきに投与が必要な状態は続いていました。

腹痛や下痢、嘔吐などの症状は日にもよりましたが、

調子のよい時は医師から許可のあった飴やガム、たまごぼーろを食べていました。

食事の時はスープや味噌汁なども食べることを許され、

全く食べることができなかった頃と比べ、

少しは気が紛れていたのではないかと思います。

 

その頃の母のブームといえばフレーバー付きのお水や紅茶、ヤクルトでした。

最近の水には様々な味がついているので、ももやレモン、

ぶどうなどのフレーバー水を日替わりで楽しんでいました。

最初はフレーバー付きの水だけでしたが、後にフルーツジュースも解禁されました。

一度に多くの量は飲めないですし、開栓してから日数が経過してしまうと、

衛生面で不安が残るので割高ではありますが、

紙パックの飲み物を準備して持っていっていました。

子ども用のアンパンマンのフルーツジュースはサイズや味ともにおすすめです(笑)

味の種類が豊富なんですよね。

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状態としては大きく変わらなかったですが、

口にできるものの幅が格段に広がり、

絶飲食期を思うと入院生活にも楽しみができていたのかなとも思います。

 

そんなこんな過ごしてる間に月日は流れ、毎月造影CT検査を行うも状態に変化なし。

最初に免疫抑制剤・生物学的製剤の投与を始めてから、

約半年近く経過しようとしていました。

 

医師から今後の治療方針について話があるとの電話をもらいました。

新しく始めたレミケードも、採血で血中濃度を測定しているが、体内に残っていない。

医師から小腸の炎症部分からレミケードが漏れ出ている可能性が高く、

血中濃度を保てないために効果が得られにくいとの説明をされました。

 

これらのことを含めて、今後の治療について話があると。

今回の病状説明は、母の部屋で母とともに聞くことになったのです。

明らかに前回の説明時と状況が異なり、

いよいよ何かの決断がなされるのかと覚悟しました。

 

 

最初の方はこれまでのプチまとめのようになってしまっていますが、

最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。

 

次回は入院1年を経ての病状説明の巻をお伝えしていきたいと思います。

 

では。

治療効果なし。レミケードへの挑戦。

免疫抑制剤(タクロリムス)と生物学的製剤(ヒュミラ)を開始して1か月後、

治療の評価を行うために造影CT検査を行いました。

 

結果としては変わりなし。

悪化もしていなければ、効果も出ていない状態でした。

 

その後、ヒュミラの投与量を倍に増やすことを試みましたが、

それでも効果は得られませんでした。

 

そうこうしている間に、医師から病状説明の機会が設けられ、

元の大学病院に戻ってきてからの経過についてお話を受けることに。

コロナ禍ということもあり、私ひとりで聞くことになりました。

 

病状説明の日は母の病室前を素通りし、面談室へ。

 

その時の話の主旨は投与中の薬(タクロリムス・ヒュミラ)では効果がなく、

新たな薬剤の投与を検討しているという話でした。

 

ヒュミラと同じ生物学的製剤である、「レミケード」について説明を受けました。

 

レミケードは炎症性腸疾患の代表であるクローン病潰瘍性大腸炎などではよく使用される薬かと思います。

添付文書をみると、代表的なものでは関節リウマチやベーチェット病、乾癬、強直性脊椎炎 そして既存療法で効果不十分なクローン病の維持療法や中等症から重症の潰瘍性大腸炎の治療が対象となっています。

自己免疫性疾患においては全般的に使われる薬剤のようです。

田辺三菱製薬さんのHPがとてもわかりやすいサイトだったので、添付しておきます。

レミケード|田辺三菱製薬 医療関係者サイト Medical View Point (mt-pharma.co.jp)

 

しかも、IBD(炎症性腸疾患)についてのコラムや動画、

セミナーも充実しているので、私も右も左もわからないときはお世話になりました。

し、今でもお世話になっています。

 

母の場合、症状や検査結果は炎症性腸疾患と類似したものを呈しており、

炎症性腸疾患の治療に沿った薬剤選択がなされました。

 

ざっとこのような説明を受け、

全て終えた後は受け持ち看護師が気を利かせてくださり、

部屋の前の廊下を通った際に少し扉を開けてくれ、顔をみることができました。

数メートル先に居るのに、まともに話もできない悲しさもありましたが、

たとえ一瞬でも顔だけでも生でみられたことに感謝です。

 

そして、母にも同じ説明がなされ、前回同様に院内倫理委員会の同意書にサインし、

正式に生物学的製剤の変更を行うことになりました。

 

レミケードは点滴で投与するお薬で、

こちらも疾患によって投与するスケジュールが異なります。

炎症性腸疾患に準じた投与となったので、初回投与を行ったあと、

2週・6週と投与し、採血検査で血中の薬剤の濃度を確認しつつ、

造影CT検査や内視鏡検査で効果を判定していくことになりました。

 

 

今回は久しぶりに治療経過メインの内容となりましたが、

この辺で終わりにしようと思います。

原因のわからない難病、ただただ合う薬をみつけていくしか手だてはありません。

レミケードを始めることになり、これで3剤目。

 

次回はレミケードを始めての治療効果について書いていきたいと考えています。

 

最近長文になってしまいがちなので、

読みやすい文章づくりを心掛けていきたいと思っています。

いつもお読みいただいている方も初めましての方も、

お読みいただきありがとうございました。

 

では。

人と話すということ。入院で絶たれる様々なもの。

前回に引き続き、コロナ禍の母の入院生活のお供についてや

そんな日常で感じたことについて書いていきたいと思います。

 

コロナ前の直接面会していた時は、面会では会話をしていることがほとんどでした。

長いときは3~4時間滞在して主にお互いの最近の出来事を話したり、

時々この先の不安なんかを話したりして過ごしていました。

 

面会って、本人が動ければ院内を一緒に歩いたり、

中庭とか展望階とかでお話したりすることが多いのかなと思います。

コロナ前であれば、食堂や自室内で一緒に食事をしたり。

でも、体を動かせず部屋から出られないで生活している方もいる。母のように。

そういう場合は、もう話をするだけしかできなかったりするんですよね。

 

母にとっても人との会話が気分転換や暇つぶしになっていたのだと思います。

それが面会制限によってできなくってしまったのです。

前からお話してきたように、読書やテレビといった対人ではないものでの暇つぶしをするほかなくなってしまいました。

面会制限に伴いより社会との壁が厚くなり、

入院生活の退屈さが増すことになりました。

 

そんな母の様子を見る中で、コロナによる面会制限や入院に伴う社会生活の制限について考えたことがあります。

 

入院による外界との断絶は、物理的なものだけではななくて、

社会生活の中で必然的に営まれている何気ない物事ととも隔てられてしまうというのも大きいのかなと思っていて。

入院してから母はよく、「人と話すのが怖くなった」と言うようになりました。

長い間病院の中で生活し、会話の相手が医療者に限られてしまうと、

”普通の”会話、世間話的な会話の仕方を忘れてしまうとのことでした。

入院前まで自然とやってきた会社の人や買い物に出た先のお店の人とのやりとり、

近所付き合い、家族とのやりとりも入院により、一切できなくってしまう。

医療者との会話といっても、病状についての話や療養上必要な情報収集的な意味合いが大きく、公平な立場での会話とは感じられないようでした。

 

医療者との会話って、どこか仕事的というか。

改めて考えると、聞かれたこと、医療者が求めることに関する会話中心になってしまいがちだと感じました。

病気のことに関わらず、患者が話したいことを話す機会ってどれくらいあるのだろう。

もちろん状態によっては不必要な会話以外は話したくないと思うときもあるだろうなとも思います。

でも、人と話すって基本的な人間の社会的な営みとして大事だと思うのです。

 

このような母の話を聞いて、自身の仕事においても

何気ない日常会話こそ大切だと改めて思うようになりました。

入院している患者にとっての社会は”病院”が多くを占めます。

コロナ禍においては特に。

そしてコミュニケーション相手はやはり看護師が多いと思います。

 

母から「当たりの看護師、はずれの看護師がいる。」という話をされたときは

冷や汗ものでした。

患者側の率直な意見だろうと思います。

母的には業務的なことしか話さない人とそうでない人はすぐわかると話していました。

こういった同業に関する話は耳が痛いですが、

普段の自分からではその視点は生まれなかったと思いますし、

普段の自分の看護も一方的なコミュニケーションになっていないか省みるようになりました。

 

医療者と患者の間に”医療”が介在することで、患者は「仕方ない」とあきらめて生活していることが多いのではないかと思います。

その仕方なさにこそ、葛藤とかストレスとか名前の付けようのない気持ちがあるのに、

その狭間にある気持ちを見落としてはならないなと思います。

母からの率直な意見は本当に学びが多かったです。

 

 

今回はきりが良いのでこのあたりで終わりにしようと思います。

今回ご紹介する本は、母が入院していた病棟の仲の良かった看護師が薦めてくれた小説です。

色々な人のおすすめを聞けるという点では楽しさもあったのかなと思います。

こちらは上橋菜穂子さんの守り人シリーズというものです。

シリーズものの本は暇つぶしに持って来いですね。

 

 

 

 

入院中に読んでいた本はまだまだたくさんあったのですが、

きりがないので今回で終わりにします。

 

次回からはまた、治療経過についてお話していきたいと思っています。

免疫抑制剤と生物学的製剤を開始した後の経過は難渋しており、

新たな治療が開始したことについて話していきたいと思います。

 

お読みいただいた方、ありがとうございました。では。

差し入れの重責。母年表をもとに試行錯誤する日々。

前回、入院生活の暇つぶしに読書を始めた母について書かせていただきました。

今回は差し入れの本を選ぶ中で、考えたことについてお話していきます。

 

一般的に、人に何かをプレゼントするときってその人の背景だったり、

大切にしているものから想像を膨らませて贈るものを考えたりすると思うんです。

そのようなことを考える中で、母の背景や母がこれまで大切にしてきたものについて、

自分はあまり知らないということに気が付きました。

私が大学生で一人暮らしを始めるまでの、18年間をともに暮らした母。

学生時代は自分の人生軸しか存在しておらず、

母の人生について関心がなかったように思います。

そこで、今一度”母という人”の人生について考えみることにしたんです。

内容は簡単で、「母年表」と題して、

母の出生から現在に至るまでの情報を年表のように書きだしました。

母の話によく出てくる友人や、学生時代の部活動やクラブ活動、バイト、新社会人で就職した職業など。

子どもを出産後の人生がどういうものであったか、

これまでの人生においてキーとなっている出来事は何かを考え描いてみたのです。

描く前からもわかっていた通り、母のことをあまり知らなかったことをさらに実感。

身近な家族こそ、意図的に価値観に触れていくことは大切だと思いました。

現在の趣味や関心、置かれている状況など色々な背景を捉え、

どのような本が元気づけられるだろうか、心が軽くなるだろうかと熟考しました。

 

入院生活が1年経過しようとして、ある視点から言えば病院に長いこと捕らわれた母。

牢獄のように外界と人との関わりが絶たれた生活。

牢獄がどういう場所かはわからないのですが。

(厳密にいえば、テレビの世界観としてでしか理解できていないのですが。)

外界と遮断された世界で生活する母。

 

外界からの情報は、自分でスマホから得るか、私からの情報か。

しかも、本や雑誌なども書店に並んだ無数の中から選ぶわけではなく、

買い手である私が選んだものでしか世界がつくられない。

そんなことを思った私は、私が手渡すその一回一回の本や雑誌が

母の入院生活の質に直結すると感じて、勝手に責任の重さを感じていました。

 

本の差し入れに責任!?と大げさだと思うかもしれないのですが、

私が渡した世界で楽しいも、悲しいも、感動も、恐怖も、面白さやワクワク、ドキドキも左右されてしまう。

そう思うとなんだか怖いなと。

 

そうして色々と考える中で、世の中にはこんな本もあるのかと思う

発見的な出会いもありました。

それは、料理の挿絵がきれいに描かれた短編小説や、

料理の写真ページもある本たちでした。

今まで本といったら、活字ばかりの小説のイメージが強くありました。

しかし、それに比べ見つけた本たちは堅苦しくなく、

絵本的な要素も楽しめるという、とても画期的な小説群でした。

こんな本もあるのか!と書店で心躍った記憶があります。

料理や食事が好きな母、今は病気の関係で何も食べられない状態。

 

入院後、今までは食品の匂いを嗅いでもらったり、

雑誌をみてもらって楽しんでもらっていました。

「本は読むのが疲れる。何も考えなくてもいい雑誌や音楽、テレビが楽」と言っていた母。

 

挿絵付きや写真付きの小説であれば、

疲れない読書をしてもらえるかもしれないと思いました。

 

プレゼントするまで、母が読むまでとてもワクワクしました。

案の定、母の反応は抜群で、こんな本あるんだねって驚いていました。

 

本を読むのが苦手な方、本を読みたいけど長く読むのは疲れてしまう方におすすめだなと思います。

長時間小さな文字をみるのはしんどいですが、

時折の挿絵や写真などで少し休憩ができ、苦なく読み進めることができたようです。

文字を読む元気がないときは、文字ではないものでも楽しむことができる。

そんな風に、本の可能性が広がる出来事となりました。

 

最後に今回の差し入れ本のご紹介をしていきます。

 

 

 

 

 

 

今回も最後までお読みいただい方、またそうでない方もありがとうございました。

ここ数回脇道に逸れた読書の話題も次回で最後にしようかと思います。

入院中に母が読んでいた本の紹介を終えたら、また入院経過についてお話していきたいと考えています。

では。

何かしたいと思えるように。溢れかえる本。

入院して半年以上、持続する症状に苦しみ、自分では体さえも動かせないような状態。

そんな状態では何かしたいと思う気持ちも起きないようで、

母はテレビや音楽鑑賞などの受動的に楽しめるもので時間を潰していました。

テレビはもっぱら大食い番組や料理番組を見ていましたね。

時々、調子が良いときには雑誌を眺めたりして過ごしていました。

雑誌選びのポイントは薄くて軽いもので文字が少なく、目で見てただ楽しめるもの。

長期入院で本をずっと持つ筋力さえも奪われていました。

”身体が辛くなく楽しめるもの”を意識していました。

 

お肉料理の料理本やラーメン店特集の雑誌、ハーブの雑誌や本、かわいい猫の本などは好評でした。

色々と面会に行くたびに差し入れしていたら、

テーブルの上は本で溢れかえって、転院のときには大変な思いをしました(笑)

 

そして世の中がコロナに侵食される頃、

母は症状(腹痛や下痢、吐き気、嘔吐、腹部膨満感等)は持続していましたが、

新しい薬物治療の効果があってか、症状が出る頻度が少なくなっていました。

症状が出ていると、動くとさらに悪化するということもあるし、

そもそも動くことができなかったりしたので、

基本的にはずっとベッドの上での生活をしてきた母。

辛い症状がないことで、体を起こす時間が増えるようになっていきました。

 

そんなある日、入院してからというもの受動的な楽しみばかりをしてきた母から、

「本が読みたい」との希望が聞かれました。

最初は本?

と思ったのですが、動けるようになったらなったで、暇をより感じるとのこと。

何かにずっと集中できるような暇つぶしを考えた結果、

読書を試すことにしたそうです。

 

自分で何かをしたいと思えるくらいになったことに安心しました。

加えてしたいことがあっても遠慮していたんだと思いますが、そんな母からの要望!

入院していると何もしていなくてもお金がかかる状態。

何か必要なものあったら言ってねと言うものの、

言う側からしたら言い出しづらかったと思います。

それを伝えてくれてとても嬉しかったです。

自分が思う楽しんでくれそうなものと相手が楽しめるものが完全に一致することって、

本人が言ってくれる以外ないなと思うので。

母の希望に添えることが嬉しかったのだと思います。

 

そんな母から希望が聞かれ、本を探す日々が始まりました。

まずは、一番最初の入院時に買った本が読めずじまいにいるとのことだったので、

それらの本たちを実家からお取り寄せし、物品補充時に一緒に持っていきました。

 

次の病院日まで悠長に過ごしていると、もう読み終えたとの連絡。

この頃の母は凄まじい速度で差し入れた本を読破していきました。

需要と供給が釣り合わない。

緊急事態宣言下では大型書店も時短営業となっており、

新しい本を入手するのに苦労しました。

お値段を考えるなら、メルカリや古本屋も脳裏をよぎったのですが、

免疫が低下している母に、感染源となりうるものを渡すのはリスクが高いと考え、

断念しました。

だからといって、店頭に並んでいる本が清潔かつ無菌なわけではないのですが。

 

緊急事態宣言下では営業している本屋も少ないし時短営業だし、多くの社会人がリモートワークになったり、学生も休校になったりと、いつにも増して混んでいましたよね。

閉店間際には書店内を1週する勢いのレジ列に驚いた覚えがあります。

あの時期はステイホーム、ステイホームと言われて、

何か家でできることを見出すことに注力していた気がします。

老若男女が書店に駆け込んで、普段読まないような小説や一念発起で何かの参考書を手に取ったりと、急に本と向き合う人が増えたように感じていました。

 

母への本選びの名目でしたが、自分もその中の1人でした(笑)

 

母に選ぶ本。

どういう本がいいという希望は特になかったので、

最初は話題の小説を差し入れることが多かったです。

最初に差し入れた本は宮部みゆきさんの「蒲生邸事件 上下巻」でした。

ミステリーや事事件解決系のお話が好きなこともあり、

宮部みゆきさんの作品なら、間違いないであろうとの予測、

そして上下巻があるこの本になったのでした。

私自身は母の読み終えた本は読むことはなかったので、

あらすじについてはご勘弁であります。

 

今回もとりとめのない話を最後まで読んで下さった方、そしてそうでない方も訪問いただきありがとうございました。

今後も病状や治療経過に加えて当時母が読んでいた本の紹介などもしていこうかと思います。

私が知らないだけかもしれないのですが、本の種類についての新たな発見などもあり、

お伝えできればと思っています。

 

 

 

 

 

では。

”コロナ禍”という状況に救われた話。

面会制限により全面的に面会ができないことはとても寂しいし、

会って状態を把握できない分、心配は大きかったのですが、

振り返ってみると、自身にとっては悪いことばかりではありませんでした。

むしろコロナ禍で面会の頻度が減ったことは結果的に自分にとってはプラスでした。

 

肩の荷が下りたような。

張りつめていた糸が緩まったような。

そのような感覚に近いと思います。

 

自分で面会に行かないという選択をすることに罪悪感があったのですが、

状況的に”行かなくてよくなった”ということが、

自分を楽にさせてくれたように思います。

 

もちろん、コロナ自体は生活に様々制限をもたらしました。

友人には会えないし、旅行やライブに行くことが制限され、

ただ病院(職場)と家と病院(母の)を行き来する日々。

これはこれでつまらないですし、しんどさもありましたが、

そのしんどさが気にならないほど、

自分の時間が確保できたという感覚が大きかったのかもしれません。

 

あとは、気乗りしない飲み会が減って気持ち的にも楽になりました。

母の入院前までは比較的人付き合いは多い方で、

週に何人ものとの予定を入れていました。

けれど、母の体調が崩れてからは、生活が大きく変わっていました。

 

母が入院した当初は職場の人含めて周囲の人に話すことができていなかったので、

というよりは説明する方が面倒くさかったので話していませんでした。

なので、飲み会やら遊びに誘われては、自分がそんな状態にないことと友人たちの浮かれた誘いとのギャップに心が荒んでいきました。

理由を言わずに断ると、気を利かせてくれてリスケされてしまったり。

リスケしないで、私以外で行って来てほしいと何度も思いました。

行けない理由を言ってしまえば楽なのですが、

周囲の人に話すハードルって意外と高いなと思います。

自分にとって重要でパーソナルな内容であればあるほど。

 

話をする気力もなかったので、この時期は詳細を話さずに居ながら自分をコントロールするのが大変だった記憶があります。

これまで自分だけが停滞した世界に居て、周りの人の世界はスムーズに進んでいるように感じていました。

そういう心境でいたので、コロナ禍になって世界全体が同じような状態になったことで、自分の外の世界も停滞したことで相対的に救われたのだと思います。

 

飲み会も理由を話さなくても断れるし、そもそも飲み会とやらが開催されない。

見えないハラスメントからの解放でした。

 

過去を振り返ると、コロナ禍によって、実際の面会に伴う様々な負担がなくなったこと、卑屈になっていた自分が気にならない環境になったことで、

周りと比べていた自分から、自分を考える自分になることができました。

 

このことについて深堀すると、どんどん迷走してしまいそうなので、まだ入り口がみえるこのくらいで終わりにしようかと思います。

 

今回はコロナ禍の面会が自分にもたらしたこと、気づきや得たものに焦点を当てて、お話させていただきました。

次回は、面会制限期間の母の暇つぶし、入院生活を充足させたことなどについてお話していきたいと思っています。

 

本日も最後までお読みいただいた方もそうでない方も、ありがとうございました。

日々感謝しております。

では。

 

コロナ禍の面会。大切な時間を紡ぐ。

コロナがある世界になってから、様々な場面で生活様式が変化しました。

面会や入院もしかりです。

病院で働いているからこそ、より一層思うのですが、

今までなら普通に面会できて、一緒に何かを食べたり何かを見たり、

たわいのない話だってできていました。

看護師の立場で話すなら、最期のときを迎えようとしている方には会わせたい人がいたらできる限りたくさん会ってもらっていたし、

近親者には数日間遅くまで面会を許可していたり、

私も経験した”夜が山”という場合でも、院内の家族控室に泊まってもらったりして、

ケースバイケースで大事なその時を過ごしてもらっていました。

 

それがコロナによって一変しました。

コロナ感染患者さんが家族と会えないことはもちろんのこと、

その他入院する患者や家族にとっても大きな変化だったように思います。

その頃病院のスタッフの間ではよく、

”家で過ごしたい、家族と過ごしたいならこの時期の入院はよく考える必要がある”

と話していました。

 

世界や日本社会といったマクロ的に考えるなら、順守しなければならないこと。

けど、その人その人の、その家族その家族の、世界と比べたらミクロだけど、

その人たちにとっては比べられない価値がその時間にあると思うんです。

 

私も、母が入院中もし急変したらとか、そしてそのままもしものことがあったらとか、

色々考えました。

入院してこのまま会えなくなるなんて、入院時に想定しませんし、

それができた方なんていないんじゃないかと思うんです。

 

家族が入院している身でもあったので、

面会できない家族の気持ちや患者さんの気持ちが痛いほどわかりました。

 

何が正しいのか本当にわからなくなる日々でした。

 

コロナ禍の母との面会は主にLINEのテレビ電話で行っていました。

顔がみられるって本当に嬉しいですよね。

本当は声が聴けるだけでも嬉しいんですけど、顔を見て話せるっていうのはまた違う。

母は嘔気や腹痛に襲われることも多く、タイミングが難しかったり、

長く電話はできなかったのですが、

時々テレビ電話を通じてオンライン面会なるものをしていました。

 

緊急事態宣言が解除になった夏頃には、スマホを持たない祖父母のもとに帰り、

実家からテレビ電話をして祖父母と母の面会を実現させたりしました。

実際にその場に連れていくことが難しくても、

オンラインだったら可能性が広がります。

祖父は入院後初、約1年ぶりの対面で、祖母はクリスマス以来の半年以上ぶりくらいの対面となりました。

祖父は恥ずかしがって反応が薄かったですが(笑)

母は喜んでくれていたように思います。

 

そして実家では猫を飼っているのですが、母が溺愛していた猫とも面会に成功。

猫ちゃんは画面の向こうにいる母なんて気にも留めず、自由に過ごしていました。

動物との面会なんて通常できないことを考えるとオンラインてすごいですよね。

今の通信技術に本当に感謝しかありません。

 

直接面会ができなくても、どうやって大事な時間を紡いでいくか、試行錯誤する日々。

当り前がなくなると、人は本気で考えて新しい道を探す努力をするものだなと実感しました。

 

今回はコロナ禍始まりの面会事情についてお話させていただきました。

コロナが終息しない今も、面会を禁止している病院がほとんどだと思います。

今現在、入院している方やそのご家族にとって何かのためになったらと思います。

次回はそんなコロナ禍の面会が自分にもたらしたことについてお話していきたいと思っています。

 

お読みいただいた方、ありがとうございました。

スターを下さる方、ありがとうございます。

読者になってくださった方、ありがとうございます。

 

では。